佐倉雄二はマタギと呼ばれる狩人だ。
またぎとは、秋田を発祥とするといわれている狩人の事で、その徹底した自然への信仰心と畏怖心、優れた組織性と、アイヌ文化に類似した部分を多く持つ彼らは、その学問の知識人にとって見れば生きる資料であった。
マタギは本来は群れて狩をするのだが、佐倉一は人で狩をしている。要領の良さと、一つ変わった能力があるために、佐倉は仲間を必要としないのだ。だから一人で狩れる。
能力は「動物と会話する」事だ。
いったい何のために、どういうつもりで佐倉にこんな力が備わったかは知らないが、そのお陰で佐倉の狩の成功率は仲間内でも抜きん出ていた。
もっとも、マタギにそんな数など関係ない。
自然の境界に介入しているのだ。ちっとも褒められた事ではない。だから山に入る前に禊をするし、敬意を表して獲物を狩る。
それは今まで続いてきたマタギの歴史であり罪であり、誇りだった。
そんな佐倉は今、青森の下北半島にいた。やたらと寒いこの土地で佐倉が依頼されたのは猿の退治だった。最近まで、下北半島の猿は最北端に住む日本猿の為に特別天然記念物となっていたのだが、法改正で農作物を食い荒らしたものに限って退治する事が出来るようになったとか。
しかし、その法律とやらは、本当に猿を殺すつもりはないのだろう。
法律上猿を退治できるのは…
「猿が農作物を食い荒らした証拠がある」
「確実にその固体と判別できる」
という二つの条件が最低でも必要なのだ。
幸い、今回の仕事は条件を二つとも満たしている。いや、不幸にもと言うべきか。外部へ依頼が行くという事は、つまりそれだけ猿が手強いという事なのだ。
現に、現地の猟友会は狩に出てから2ヶ月もたっているのに未だにその猿を捕らえずにいた。無論、その間もその猿は農作物を荒らしまくっていた。
「そこで…俺の出番か…」
もう厄年を過ぎて老い始めた体。水気は抜けひび割れた皮膚。
銃を背負うその後ろ姿は、しかし逞しい。
長年培われてきたマタギとしての勘。そして生まれ持った力。
どこかの有名な動物学者は「人間に追跡できない動物は存在しない」と言い切った。現に、そのとおりに佐倉の追跡は、ゆっくりではあったが確実に猿を追い詰めていった。
山に入って三日目。マタギとしての経験と、そして周囲の動物たちからの情報収集によりついに佐倉は猿を発見した。その猿は写真で見るより大きく、そして老いていた。
ありきたりな感想を抱いた佐倉は悟られないように風下に向かった。物陰に隠れて息を潜め、ライフルの照準をゆっくりと老猿へと向けた。昂ぶる気持ちを抑えるために大きく息を吸い、気持ちを落ち着かせる。何時になっても、この瞬間は慣れない。自然へ介入に対する恐怖心が佐倉の心をぐらつかせるのだ。そんな気持ちでいたら当るものも当たらない。一呼吸いて気持ちを落ち着かせた佐倉は指をそっと引き金にかけた。心で念じるのは自然への敬意と謝罪の言葉。「すまない。達者で」と最後に呟いてよいよ引き金に手をかけたその時だった。
「人間よ。俺を殺すのはかまわないが、その前に話をしないか?」
予想もしなかった事。それは狙撃対象から突然会話を要求された事だった。引き金を引く瞬間に気づかれて騒がれた事は幾度かあったが「話そう」と言われたのは今回が初めてだった。佐倉の体を動揺という名の電流が駆け巡り、心臓の鼓動は大きく乱れた。
「な、何故…」
口の中の水気が一気に引き、枯れた声が一層枯れてしまった。そんな佐倉と対照的に、猿は皺くちゃの顔をグニャリと歪めてその光景を楽しんでいるようなそぶりを見せて口を開いた。
「主が鳥や鼠に俺のことを聞いていたように、俺もそいつら伝いで主の事を知ったのよ。撒いてやろうと思ったが、まさか追い詰められるとは思わんだ」
「その追い詰められたのが如何して俺と話そうなど?逃げればいいではないか」
そういうと猿は突然笑い出した。深い森の木々の葉に跳ね返り、猿の笑は佐倉のあたりを何度も響き伝わった。
「自分優位の物言い。いつから人間はそんなに偉くなったのだ。人間の爺が…」
笑みを浮かべたままだが、その言葉からは明らかな敵意を感じた。背筋がぞっとする。
「人間が知識を得たからか?文明だとか言うわけのわからないものを手にしたからか?何時から、何時から人間は世界の管理人になったのだ?」
「人間は自然を破壊してきたからな。自然を守ろうとするのは当ぜ…」
佐倉がすべてを言う前に、猿は大にした声で遮った。
「それこそ人間のエゴ!じゃあ何故未だに自然というものを壊し続ける。木を切る!大地を掘り返す!水を汚す!それは人間にその気がさらさらないことだ!!そんな人間が何故生きていられるかわかるか主よ!」
「それは…」
言葉が出てこない。銃を持つ手に汗が流れる。ギトギトした嫌な感じの汗が。
猿は生の感情のまま、雪崩のように、濁流のように、突風のように荒々しく、そして猛々しく言葉を放ち続ける。
「それは自然が人間を生かしているから!蟲の数にも満たない貧弱な眷属のために自然は環境を変えているのだよ。それを何だ貴様らは。自然破壊だの何だの抜かして、自然に守られている人間が自然を守だと?笑止千万!!愚かにも程がある!!我々が消え逝くのは自然が変わっていったから、それに対応するために変化しようとするために一時消えて逝くのに、貴様らはそれをさせない!」
冷たい風が森の中を駆け巡り、佐倉の肌を叩くように吹き抜けた。冷たさは肌を刺すように感じる。ざわざわと聞こえる木々の葉の音は、そんな佐倉を馬鹿にしている小さな笑の群れのように聞こえる。
「違う…それは人間が自然に対するせめてもの償いとして…」
「それが愚かだというのだ!生き物と自然の間を、荘厳な佇まいで遮る門。それが開き閉まる理に従いある時は門が開いて新しい種として自然に生き、時がたち自然が変わればその門が閉じてその種は自然で逝くのだ。そして、変わった自然の中で生きていくだけの変化をその種が行えば再び門は開くのだ。それこそ自然の理だ。だがしかし、その理を…理を無視して人間は無理やり介入しているのだ!万有必滅!その理を人間は無理やり捻じ曲げようとしている!何故それがわからん!貴様らには知があるのではないのか?文明とやらがあるのではないのか?そんな当たり前の自然の摂理を守れぬ文明などたかが知れている!!挙句の果てにはそれを他の種である我々にも押し付ける!おかげで山のバランスは壊れ、人間なんぞの世界に踏み込まなくてはならん!」
「黙れ!それが言い訳になると思っておるのか!」
佐倉は負けじと声を大にして銃口を猿へと向けた。
「それが理由で自然の境界を乗り越えて!人の里に降り!人の手のかかった物を食べるのか!!」
「そして都合が悪くなれば殺しにくる。どっちが先にわれわれの領域を脅かした!誰が貴様らに扉を再び開けてくれと願った!時がたてば再び開く進化の循環を!貴様らの都合で捻じ曲げるのか!!」
「黙れといっているッ!!」
佐倉の怒号と同時に耳を劈く爆音が山を引き裂いた。鳥がいっせいに飛び立って一瞬騒々しくなるが、一秒もせずに訪れたのは静寂。耳が痛いほどの静寂だ。残ったのはただの人間一人と、猿だった有機物の塊だ。佐倉はその場に腰を落とすと俯いた。一方の猿の顔は、撃たれて死んだというのに、満足そうな笑みを浮かべていた。
「そんなに…人間は愚かじゃ…」
無い、とはっきり言えなかった。立った一匹の猿の叫び。生き物の純粋な叫びと思考。自分が感じたのは怒り。どこにもぶつけることの出来ない、行き場のない怒り。そんな怒りに流されて佐倉は引き金を引いたのだ。それは、マタギとして最悪の行為だ。
逆に猿たちもそうなのかもしれない。自分たちの運命を無理やり捻じ曲げられ、それでも人間のように自殺するような考えを持たない彼らは、触れたくもない人間の世界にやってきてその怒りをぶちまけるのと生きるためにちょっかいを出したのか。
佐倉は肉の塊に一瞥すると踵を返して山を下った。
マタギとしての誇りを失ってしまった佐倉にとって、そんな事などもうどうでも良かったのだから。
ざわざわと木々の葉が擦れあう音がした。まるで人間をこばかにしたようなヒソヒソ笑いのような、とても不快な音だった。
もう厄年を過ぎて老い始めた体。水気は抜けひび割れた皮膚。
銃を背負うその後ろ姿は年齢以上に老いたようだった。
しかし、彼から動物たちの言葉を聞かなくなるような事は無かった。